今朝は数日ぶりに、犬と一緒にスローランニングを楽しめた。

と言っても、御年8歳6ヶ月の犬は、私の少しうしろから、やや早足でついてくる状態だ。

さすが四本脚!

時折、私は彼に向けて

さすが四駆はすごいね~!

なんて言葉をかける。

犬からしてみたら私の言葉は、ただのノイズでしかないと思うけれど。

おじいさんの暮らしぶりに勝手に癒やされていた私

話を戻すと、私と犬は約1kmくらいの“いつものコース”をぐるりと一周した。

その道すがらに、古い平屋がある。おじいさんがひとりで暮らしていたおうちだ。

夕暮れに届かぬ午後の散歩に出ると、よく、おじいさんの入浴する気配が私を包んだ。

私の嗅覚を刺激したゆずの香りは、バスクリンであろうか。

シャワーは無いのかもしれない。桶でバサーッと豪快に湯を浴びる音が、聴覚を刺激した。

このようなおじいさんの日常の一部は、固くなった私の顔をほころばせてくれたものだった。

無論、ご本人であるおじいさんは、こんな事情を知る由もない。

おじいさんは私のことを癒そうだなんて考えているはずもないし、私もおじいさんから癒やされたいだなんて、まったく思っていない。

要するに、お互いに直接的な関わりは皆無で、当然だが、全く期待をしていないわけなのだ。

これは、おじいさんの日常の一部が、ほんの一瞬、年に数回くらいの頻度で、私の日常に交差する瞬間があった、というだけのことである。

今朝、こんなことを強烈に思い出した理由は、

もう二度と出会えない瞬間であることを再確認したからなのかもしれない。

おじいさんがお亡くなりになった後|私の記憶の変遷

そう、そうなのだ。

おじいさんはお亡くなりになったのだ。しかも2年くらい前に。

亡くなって間もない頃は、家の横を通るたびに、私の五感を刺激してきた情景を勝手に懐かしんでいた。

それがいつの間にか、懐かしむことはなくなった。

やがて誰も暮らさない家は、風景の一部として馴染んでいった。

それが今日、唐突に突然思い出されたのだ。

人の記憶は不思議である。

大切なことを忘れてしまったり、どうでも良いことを突然思い出したり。

「なぜこうなのだろう」と書きながら、そういうものなのだろう、と思い直す。

人の暮らしぶりが与える価値|世に誇れるようなことでなくても、知らず知らずのうちに与えている価値がある

なぜわざわざ、こんなことを書きたくなったのかは、正直よくわからない。

これは私のクセでもあるが、インパクトのあったことに意味づけをしたくなったのかもしれない。

それでも書きながら浮かんできたのは、

外側に漏れ伝わる人の暮らしぶりは、それだけで価値があるんだなぁ

ということだった。

私は様々な媒体を使って発信をしているが、確率された目的があるわけではない。

収入を得られるようになりたいと思ってはいるけれど、“人を幸せな気持ちにさせたい”とか“誰かの支えになりたい”というような立派な目的は見当たらない。

無論、世の中に尊い価値を生み出しているとも思っていない。

しかし今、思うのだ。

おじいさんのような存在になりたい

と。

このブログをお読みくださり、ありがとうございます。

あなたのお顔がほろっとほころぶ一瞬に、このブログが立ち会えていたら幸いです。