ある出来事をきっかけに、私は自分の考え方や人との距離感について見つめ直していました。
その中で、ひとつの言葉にたどり着きました。
それは、「バウンダリー(境界線)」です。
丁寧に振り返ってみると、あらゆる場面で境界線の問題が起きていたことに気づきました。
私の反省と、元々あった問題
先日私は、音声SNSのライブ配信中、とても感情的になってしまいました。
振り返ると、登場させている相手に対し、不適切だったと思う発言もありました。
それについては反省しています。
しかし、反省を重ねるうちに、ある違和感を覚えるようになりました。
それは、私の反省が大きくなりすぎることで、元々あった問題が霞んで見えるようになってしまったこと。
今回の出来事には複数の問題がありました。
- まず最初に、娘たちが傷つき、親に言えずに抱え込んでいたという事実。
- もうひとつは、私の発言です。
私は自分の発信について反省しています。
でも、冷静に考えてみると、私が反省することと、娘たちが苦しんでいたことは、まったく別の問題です。
相手の課題まで背負おうとしていた
私は反省をしながら、
- 相手にも事情があったのかもしれない。
- 私にも改善できる部分があったのかもしれない。
そう考えるようになりました。
相手の立場を想像してみること自体は、大切なことだと思っています。
相手の行動の理由を探し続け、自分はどうしたらよかったのだろうと考え続けてしまったのです。
しかし本来、相手の課題は相手の課題です。
私の課題とは別なのです。
もし「私は悪かった」ということばかりを考えてしまえば、子どもたちが抱えていた苦しさまで曖昧になってしまう気がしました。
私が守りたいのは、自分の正しさではありません。
子どもたちが何を体験していたのかという事実です。
- 反省は反省。
- 責任は責任。
- そして事実は事実。
それぞれを分けて考えることが大切なのだと、今回改めて感じました。
音声SNSでも境界線は曖昧になる
私は皆さんから、「私もすみませんでした」という旨のコメントをたくさんいただきました。
私はその優しさに感謝しています。
しかし、考えれば考えるほど、違和感を覚えるようになりました。
なぜなら、皆さんは悪いことをしていないからです。
私の発言は私の責任です。
本来、それを皆さんが背負う必要はありません。
私が話題にしていた相手は、皆さんにとって見ず知らずの人です。
音声SNSは、不特定多数の人が聞ける場所でありながら、どこかクローズドな空気があります。
同じ時間を過ごし、同じ話題について考え、感情を共有する。
だからこそ距離が近く感じられるのでしょう。
一方で、その近さゆえに、共感と責任の境界線が曖昧になることがあります。
ここで多少、不適切な発言に同調してしまったからといって、皆さんが謝る必要があるのだろうか、と私は考えるようになりました。
もしそうだとしたら、ずいぶん息苦しい世界になってしまうような気がします。
全部背負うと本質が見えなくなる
私自身、この罠にはまりやすいタイプだと思っています。
真面目な人ほど、この罠にはまりやすいのかもしれません。
誰かとのトラブルが起きた時、「私にも悪いところがあった」と考えることは大切です。
でも、そのまま進むと、「だから仕方なかった」に変わってしまうことがあります。
そうなると、本来見るべき問題まで見えなくなってしまいます。
反省と責任は別です。
改善点と出来事の影響も別。
それを一緒にしてしまうと、必要以上に自分を責めることになることを痛感しています。
境界線は人を守るためにある
SNSは人とのつながりを生みます。
だからこそ、ときどき境界線を見失います。
- 相手の課題を抱え込まないこと。
- 自分の課題を誰かに背負わせないこと。
- そして、本来の問題まで見失わないこと。
私はまだまだ練習中です。
それでも今回の出来事は、私に「バウンダリー」という大切な視点を教えてくれたように思います。
人とのつながりを大切にしながら、お互いの境界線も尊重する。
そんな関係を築いていけたらと思っています。
今回の記事は、私自身の整理のために書いた記録です。
また、ライブ配信の時間を共にし、一緒にモヤモヤを抱えてくださった方にも、私なりに整理したことをお伝えしたいという気持ちがあります。
というわけで、ここから数回に分けて、
- 子どもは親に「言わない」ことがある
- 相手を想像しすぎることの危うさ
- 診断名にとらわれるとはどういうことか
など、今回の出来事を通して考えたことを書いていこうと思います。
どれも私なりの答えのない問いです。
だからこそ、今の時点で考えていることを残しておきたいと思っています。
どうぞ、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
もりー