ふと考えてしまうことはありませんか。
「あの人と自分は、何が違うんだろう」と。
私には、あります。
被害者と呼ばれる人、加害者と呼ばれる人。
ニュースや物語の中で目にするたびに、どこかやっぱり、他人事のように感じてしまうことが。
けれど本当に、その違いははっきりしたものなのでしょうか。
寺地はるなさんご著書、『どうしてわたしはあの子じゃないの』は、そんな普段は見ないようにしている心の動きに、鋭く切り込んでくる作品でした。
今回は、オーディブルで聴いたからこそ印象に残った言葉とともに、感じたことを綴っていきます。
「違う」と思いたい気持ち|『どうしてわたしはあの子じゃないの』
普段は見えない感情があります。
あえて見ないようにしている感情、と言った方が正しいかもしれません。
被害者あるいは加害者と、自分との違い。
その境界線を、どこかで強く引こうとしてしまう気持ちです。
そして、自分とその人たちは「違う」と納得するために、当事者の落ち度を勝手に探してしまうこともあるのではないか。
そんなことを、この作品は突きつけてきました。
オーディブルで出会った、ハッとする一文
オーディブルで聴いていて、思わずクリップした一文がありました。
被害者と自分に、どんな違いがあったっていうんだろうと思うことはないですか?
みんなそういうふうに思うから、大した違いがないってわかるから、被害者の落ち度を探すんじゃないでしょうか。
〈中略〉
自分とは違う。だから自分はこんな目には遭わないって、安心したくて。
『どうしてわたしはあの子じゃないの』
この言葉に触れたとき、心の奥を見透かされたような気がしました。
ちなみに、この一文は図書館で借りた単行本にはなかったもの。
オーディブル版で加筆されたのかもしれません。
「聴く読書」だからこそ出会えた言葉だと思うと、オーディブル体験の深さも改めて感じました。
田舎を「くだらない」と思ってしまう理由
主人公の天(てん)は、田舎で生まれ育った女の子。
その閉鎖的な空気を嫌い、東京に出たいと願いながら成長していきます。
作中に描かれる田舎の風習は、正直に言えば「くだらない」と感じてしまうものもあります。
けれど、ふと立ち止まって考えました。
なぜ私たちは、田舎の文化を嘲笑してしまうのだろう?
もしこれが海外の文化だったら、「そういうものなのか」と受け止めるのではないか。
そう思ったとき、同じ人種・同じ社会の中にあるものだからこそ、どこかで距離を取りたくなる気持ちがあるのかもしれないと感じました。
「郷に入っては郷に従え」のもう一つのかたち
つつがなく暮らすために。
一見、その土地や集落に馴染んでいるように見える人たち。
けれど実際には、ただ従っているのではなく、賢く“擬態”している人もいるのではないかと気付かされました。
それは田舎に限った話ではなく、職場やコミュニティなど、あらゆる組織にも通じるものがあります。
「郷に入っては郷に従え」という言葉。
それは、自分を押し殺して完全に合わせることだけを意味するのではなく、自分を保ちながら、その場に溶け込むための処世術でもあるのかもしれません。
人は都合よく、線を引いてしまう
この作品に触れて気づいたことがあります。
同じであることが嬉しいときは、共通点をたくさん探して、垣根を感じないようにする。
しかし、同じであることを認めたくないときは、今度は相違点を必死に探して、違いを強調する。
そして、「自分とは違う」と納得しようとする。
そんな無意識の心の動きに、ぐっと踏み込んでくる作品でした。
日常の中に残る読後感 『どうしてわたしはあの子じゃないの』
派手な展開があるわけではありません。
けれど、読み終えたあと、ふとした瞬間に思い出してしまう作品です。
- 誰かのニュースに触れたとき。
- 人の言動に違和感を覚えたとき。
- あるいは、自分の中に小さな「線引き」を見つけてしまったとき。
そのたびに、この物語が静かによみがえってきます。
「自分は違う」と思いたくなる気持ち。
その裏にある不安や、安心したいという願い。
そうした感情に気づくことは、決して心地よいものではありません。
しかし、その違和感から目をそらさずにいられることが、他者との関わり方や、自分自身の在り方を少しずつ変えていくのかもしれません。

もりー
最後までお読みくださり、ありがとうございました☆