前回の記事では、教育支援センターでの出来事をきっかけに、娘たちが1週間抱え込んでいた思いについて書きました。
今回は、その出来事を通して改めて心に浮かんだ、先生から何度もかけていただいた言葉について綴ります。
先生から何度もかけられた言葉
先生からこんな言葉をかけられたことが何度もあります。
「診断名にとらわれないでください」
きっと先生は、
- 診断名だけで子どもを判断しないでほしい。
- 可能性を狭めないでほしい。
そんな思いで伝えてくださっていたのだと思います。
しかし、その言葉は、かけられるたびに私の心に少しずつ沈んでいきました。
まるで、澱(おり)のように。
いつからか私は、その言葉を聞くたびに、違和感を覚えるようになりました。

そうじゃない。
という思いが、心の奥から湧き上がってくるのです。
私は本当にとらわれていたのだろうか
実は今回の出来事が起きる少し前にも、私は先生からこの言葉をかけられていました。
お母さん、
どうか診断名にとらわれないでください。
その時は深く考えずに受け流していました。
しかし、先生がそう言ったということは、少なくとも私が診断名にとらわれているように見えた、ということなのでしょう。
では、私は本当に診断名にとらわれていたのでしょうか。
何度考えても、その答えは私自身にもよくわかりません。
もちろん、診断名は知りたいです。
というより、生きていくために必要だと思っています。
だから検査も受けます。
医療とのつながりを保つために、大学病院にも通い続けています。
支援機関との縁も途切れないよう、できる限り努めています。
でも、それは診断名そのものが欲しいからではありません。
診断名があれば安心できるからでもありません。
必要な支援につながるために。
子どもたちを理解するための、手がかりを得るために。
そして、親である私自身が適切な関わり方を学ぶために。
そのための診断名なのです。
診断名はゴールではない
私がいつも求めているのは、
- 娘がどんなことに困っているのか
- どんな環境なら生きやすいのか
- どんなサポートが必要なのか
そんなことです。
そして、これらは成長とともに変化していきます。
だから、「成長すれば親の負担が減る」というほど単純な話ではありません。
たしかに、娘たちは、幼い頃のような手の掛かり方はしなくなりました。
しかし、親としての負担が減ったかと言われると、私の体感としてはそうではありません。
娘たちの困り感そのものが、大きく減ったわけではないからです。
ただ、娘たちの困り感や、その表現の仕方が変わったのです。
幼い頃のように、感情をそのまま表に出すことは少なくなりました。
社会のルールを学び、諦めることを覚え、ときには自分を押し殺しながら、折り合いをつけるようになりました。
だからこそ、見えにくくなった困り感を見ようとする姿勢が、親である私には必要なのだと思っています。
娘たちを理解するための通過点
診断名はむしろ、娘たちを知るための通過点です。
でも、その通過点に立ったとき、私は時々思うのです。
一生涯が見えてしまうような気さえする、この先の人生の長さを。
だからこそ、診断がついたから終わりではないのです。
診断とは、その時々の娘たちを理解し直すための節目。
娘たちを再認識するための道しるべのようなものなのです。
親が見ている景色
障害のある子どもたちとの暮らしは、おそらく定型発達の子どもとの暮らしとは違った大変さがあります。
- 学校とのやりとり。
- 進路をどう考えるかという問題。
- 医療や福祉との付き合いかた。
- 世間との折り合いのつけかた。
気が緩む暇などありません。
まして、これらの課題が一生涯にわたって続く可能性があるのだから、なおさらです。
私は四六時中、診断名のことだけを考えているわけではありません。
でも、
- 娘たちが困らずに生きていけるだろうか。
- 必要な支援につながれるだろうか。
- 親なき後はどうなるだろう。
そんな思いは、いつも頭のどこかにあります。
消そうとしても消えず、頭のどこかにべったりとこびり付いています。
裁かれているようで、悲しい
常にサポートを必要とする現実と向き合い、それが一生涯続く可能性もある中で、私はどんな気持ちでいればよいのでしょう。
これを他者に「診断名にとらわれないでください」と言われるのは、とらわれていると裁かれているようで、やっぱり悲しいです。
24時間親として生き、365日サポーターとして機能し続ける
今振り返ると、先生と私では見ている景色が違ったのだと思います。
先生はたくさんの子どもたちと関わります。
そして仕事が終われば、それぞれの生活へと戻っていきます。
一方で親は違います。
24時間365日、親として生き、サポーターとして機能し続けています。
娘たちの幼少期には、地獄のようだと感じるほどの育児も経験しました。
そして今現在は、おそらく成人後の自立は簡単ではないだろうと感じています。
娘たちの成長とともに、課題や悩みは形を変えながら続いています。
だから、
- 気にしすぎないでください。
- とらわれないでください。
そんな言葉は、ときに当事者にとって無責任に聞こえてしまうことがあるのかもしれません。
少なくとも、私にはそう聞こえることがありました。
診断名の先にある人生
私は自分自身と向き合いながら考えてみました。
そして、「診断名にとらわれていたというより、ただただ必死だったのかもしれない」と思ったのです。
- 支援につながるために。
- 孤立しないために。
- 娘たちが少しでも生きやすくなるように。
診断名の先にある人生と向き合い続け、ずっと必死なのです。
だから今でも、「診断名にとらわれないでください」という言葉を思い出すと、何とも言えない気持ちになります。
その言葉が正しいとか、間違っているとか、そういうことではありません。
ただ、当事者にしか分からない切実さがあることも、また事実なのだと思うのです。
「とらわれないでください」という言葉の難しさ
「診断名にとらわれないでください」
この言葉を振り返るたびに、私は複雑な気持ちになります。
なぜなら、この言葉にどこか裁かれているような感覚を抱いてしまうからだと思います。
診断名にとらわれているかどうかなんて、誰にもわかりません。
たとえ誰かの目にそう映ったとしても、その一言で判断されてしまうのは悲しいことです。
当事者にしか分からない切実さ
そして、とらわれる、とらわれない以前に、診断名があってもなくても、その子に障害があるという事実は変わりません。
誰かの支えや配慮を必要としながら生きていることも変わりません。
だからこそ今は、「診断名にとらわれないでください」という言葉の奥にある思いだけでなく、その言葉を受け取る側の切実さについても考えています。
今回は、「診断名にとらわれないでください」という言葉を受け取る側の気持ちと、その難しさについて綴りました。
次回は、「大学病院にこだわる」という言葉について、私なりに感じたことを整理していきます。

最後までお読みくださり、ありがとうございました✰